生への拒否

こんばんは。まあなです。今日も、1日、天国へ、向けて、ともに、生きるお仕事、お疲れさまです。昨日から、お盆明け、ふたたび、お仕事、生きるために、どんなに、つらくても、どんなに、苦しくても、涙を、こらえて、歯を、食いしばって、じっと、耐え忍びながら、何が何でも、頑張っていかなければいけません。8月15日、一昨日は、お休み、マリアさまが、みんなのお母さまとして、天国の栄光へ、上げられたことを、祝福する日、前もって、楽しみに、とっておいたのだけれど、やはり、終戦記念日というのが、大きいのでしょうか…?どれだけ、生への思いが…、そして、平和への願いが…、強かったであろう、たましいたちの切ないぐらいの叫びが、遥かなるときを、超えて、今、私のこころに、痛いぐらい、伝わってきます。本当は、その叫び、きちんと、受け止めることができたらいいのだけれど、今の私のこころには、そんな余力が、なくて、逆に、弱すぎる私のこころに、重く、のしかかってしまうぐらいで、なおさら、息苦しいのです。こころが…、あたまが…、張り裂けそう…、私のあらゆるところが、悲鳴を、あげています。あまりにも、やりきれない
ことが、多すぎる、この世のものたち、どのように、関わっていったらいいのか…、ただ、ただ、こころが、いっぱい、いっぱいになってしまって、ついに、訳が、分からなくなって、狂ってしまいそうです。
あの朝、勇気を、持って、何とか、重いこころと、からだを、引きずって、教会へ、向かっていったのだけれど、途中、たまらなくなって、足が、すくんでしまって、涙が、あふれてしまいました。このまま、引き返そうと、思ったぐらいだったけれど、この大切な、マリアさまの日、こんな私だけれど、ロザリオのお祈り、先唱者という重要な役割を、担わされていたので…、前回、イケナイことをしたばかりで、そんなこころの余力、全く、なくて、申し訳ないけれど、とても、親切なきょうだいに、代わっていただいたのです。ということで、今度の今度こそ、教会とはいえ、信用問題に、関わってくるので、ふたたび、頑張って、教会へ、向かいました。着いた途端、またまた、たまらなくなって、涙が、あふれてきて、しばらく、落ち着きを、取り戻して、ちゃんと、できますように…と、お祈りをしてから、ロザリオのお祈り、捧げていきました。相変わらず、たどたどしいながらも、親切なきょうだいたちに、助けていただきながら、何とか、役割、果たすことができて、ほっと一息、マリアさま…、マリアさまの日に、マリアさまのお祈り、捧げることができるように、見守
ってくださって、ありがとうございます…と、感謝を、捧げました。
私、もう、だめかもしれません。できないことなら、ともかく、できなくなったことが、あまりにも、多すぎるのです。今まで、当たり前のように、できていたことが、今では、ただ、ただ、苦痛で、苦痛で、たまらないのです。本が、読めない…、ネットが、開けない…、音楽が、聴けない…、テレビが、観れない…、友だちと、会えない…、ごはんも、食べたくない…、何と、あれだけ、大好きな教会さえも、通うのが、苦痛…、この世の何もかもが、あまりにも、弱すぎる私にとって、ただ、ただ、重くて、重くて…、時には、恐ろしさのあまり、発狂してしまうぐらいです。情けないながらも、お仕事だけで、精一杯…、お休みの日は、何にも、できないし、何にも、しなくないのです。それでも、生きている限り、支えてくれている、みんなに、少しでも、迷惑かけないために、せめて、最低限のことだけは、頑張りたいと、思っているのだけれど、相変わらず、私のこころは、困ったちゃんです。
私、何のために、存在して、何のために、生まれてきたのか…、ふたたび、原点に、返ってしまいますね。何だか、同じようなことの堂々巡り…、結局、こうして、何にも、見つからないまま…、何にも、分からないまま…、人生って、ただ、ただ、過ぎ去っていくだけなのでしょうね。この人生の向こうには、きっと、きっと…、わずかな希望、抱きながら、残りの人生、生きていくことが、できるのでしょうか…?
もうだめ…、発作が、始まってしまいました。何で、なんで、こんなにも、こんなにも…、本当に、たまらない…、
みずから、このいのち、絶つことは、どうしても、罪なのでしょうか…?