過去とのお付き合い

こんばんは。まあなです。今日も、1日、ともに、お疲れさまです。今夜は、夜空のお星さまたちに、お会いできなくて、ちょっぴり、悲しいけれど…、きっと、きっと、このそらの向こうには、大きな大きな、愛しいものが、見守ってくれているはずだから、大丈夫です。いや、そう、信じ込むことで、自分を、何とか、保とうとしているのかもしれません。
どういうわけか…、お盆や、終戦記念日…、この時期になると、こころが、不安定になるのです。今年は、うつが、ひどいのか、特に、そう…、さっきから、パニック発作が、止まりません。異様な恐怖や、不安が、滞りなく、襲ってきて、今にも、闇へ、飲み込まれそうなのです。とても、苦しいです。苦しくて、苦しくて、たまらないのです。ただ、ただ、苦しいだけ…、いや、苦しいの一言では、言い表せないぐらい、苦しい以上に、苦しいのです。あのときのこころが、ふたたび、蘇ってきそうで、生と、死の狭間で、今、もがいています。お薬、飲んで、自分しっかり…と、言い聞かせたり、私を、みこころのままに、生かせている神さまへ、神さま、神さま…、どうか、どうか…と、手を、合わせて、願い求めたりと、小さき私が、できること、精一杯、必死に、しています。
たましいたちの生への切ないぐらいの叫びが、いろんなときを、超えて、今、私のこころへ、響きわたっています。幻聴なのでしょうか…?いや、決して、幻聴ではない、正に、真の叫びです。
さかのぼること、63年前、私が、生まれる、ずっと、ずっと、昔、私にとっては、遥かかなたのおとぎ話のよう…、だけれど、確実に、存在していた、63年前、戦時中、明日、いのちを、絶つことになるかもしれない、緊迫した、厳しい状況を、強いられながらも、ひたむきに、ただ、ただ、生きるために、生きていた…、生きることだけで、精一杯…、それでも、愛するものを、守りとおすために、ただ、ただ、生きたいと、強く、願っていた、そんなたくさんのいのちが、理不尽に、ことごとく、奪われて、たくさんの願いが、決して、叶うことがなかった、あまりにも、過酷すぎる現実、どうしても、小さきこころに、強い憤りと、やりきれなさを、感じるにはいられません。いのちを、自ら、簡単に、絶とうとしていた私、その現実、どう受け止めていいのか…、果てしない課題で、なかなか、難しいのかもしれません。けれども、決して、忘れ去ってはいけない…、このこころで、精一杯、受け止めて、たましいたちの真の切ないぐらいの叫びに、耳を、傾けて、そして、それらを、未来へ、受け継いでいくこと、今の私に、担わされた、重要な役割なのでしょうか…?
そして、言動、行動、思い…、いろんな記憶が、次から、次々と、走馬灯のように、駆け巡っています。
こころのほうへ、伝わってきたのか…、いっぱい、いっぱいになって、ただ、ただ、涙が、あふれてきます。いろんな記憶の中で、こうして、生きて、生かせていること、生きたくても、決して、生きることができなかった、たくさんのいのちの上でなのでしょうね。そう思うと、ふたたび、いのちへ、感謝して、大切にせざるをえませんね。
どういうわけか…、私から、打ち明けたこと、1度も、なかったはずなのに、私が、クリスチャンであること、ごく、自然に、知れわたっているのです。決して、いい意味ではなくて、現実離れしていて、風変わりなところ(他のクリスチャンたち、ごめんなさい…、あくまで、私のことです。)が、そう思われたのでしょうか…?はたから、見れば、かなりの精神異常者(適切ではないかも…)のようだけれども、自分でも、自覚せざるをえないのだけれども、もうこれ以上、自分の力では、どうすることもできないので、ただ、ただ、神さまのみこころに、私の全てを、委ねるのみですね。最初は、何となく、苦手意識を、抱えていた(ごめんなさい…)、調理のひとの、「信じるもの、持っているって、いいことよ。」、何気ない一言なのかもしれないけれど、大分、救われましたね。私にとって、キリスト教が、全てだから、まるで、自分の人格そのものが、認められたようで、大きな喜びに、満たされました。まだまだ、苦しみは、続くかもしれないけれど、苦しみは、苦しみのままでは、終わらない、苦しみの向こうには、きっと、満ちあふれる喜びが、待っているはずだから、
今は、ただ、ただ、信じること、大切にしたいと、思います。
Il quattordici agosto giovedi,le undici del pomeriggio,sereno
Buona notte...