生きづらさの中で…

おはようございます。まあなです。今日も、生きるお仕事、これから、頑張ろうと、決意を、堅めながら、今、出勤のとき、ふと、電車の窓から、お空を、見上げれば、つい、ため息が、出てしまいますね。お空は、こんなにも、こんなにも、広々と、自由に、たくさんの鳥さんたちが、飛び交っているというのに、私のこころは、いつも、あれやこれや、思い悩みすぎてしまって、ぎゅうぎゅう、とても、息苦しいです。
今日も、1日、何とか、神さまへの愛、みんなへの大好きなこころを、支えにしながら、不器用ながらも、生きること、乗り切ることができるように…、よろしくお願いします。本当は、神さまから、与えられた、どれだけ、憧れを、抱いてきたであろう、大好きが、いっぱい、喜びに、満ちあふれている天国へ、向けての1日1日、大切に、生きていくことができたらと、思うのだけれど、うつの私にとって、なかなか…、こうして、息をして、生きているだけで、いっぱい、いっぱいです。うつは、何にも、できないし、何にも、考えることができない…、最近は、どんな音さえも、大変な世の中、こころを、痛めることが、多くて、なかなか、受け付けないのです。こんな私のこと、支えてくれる、みんなの思いやりに、少しでも、応えるために、ちゃんと、やらなきゃと、必死になっているのだけれど、思い通りに、いかないことが、多くて…、ただ、ただ、歯がゆくて、歯がゆくて、たまりません。そんな自分を、だめだと、責めたり、そんな自分の生を、無意味に、思えたりと、悲観的に、なってしまって、どうしようもなく、つらくて、つらくて…、生きること、投げ出したくなるぐらいです。でも、もう、それは、いやでも、できません。どんなに、つらくて、つらくて、たまらなくても、時には、イケナイ衝動に、駆られるかもしれないけれど、何が何でも、歯を、食いしばって、生きていかなければいけないのです。キリスト者になった今、それは、無意味のような私でも、生きること、神さまから、与えられた使命だと、神さまのみこころによって、理解せざるをえないからです。私が、生きているのではなく、神さまに、よって、愛されて、必要とされるあまり、生かされているのだから、不安や、恐怖に、陥らないで、もっと、もっと、肩の力を、抜いて、安心して、お空を、見上げて、生きていきたいと、思っているのだけれど、なかなかです。本当は、そんな愛しくて、愛しくて、たまらない、神さまのために、神さまから、定められた、掟、神さまのように、隣人を、愛すること、忠実に、守って、神さまの愛しい子たちへ、親切なこころを、持って、祈りと、感謝のうちに、ただ、ただ、まっすぐに、1日1日、悔いのないように、精一杯、大切に、生きていくことができたらと、思うのです。でも、小さき私は、ついつい、自分のことばっかり、きっと、知らないうちに、たくさんのこころを、傷付けているのだと、思うと、やりきれなさで、いっぱいに、なってしまいますね。いつ、どんなことがあっても、神さまの愛しい、みんなのこと、大好きなこころは、決して、変わらないのに…、神さま…、そんな私の切ないぐらいのこころ、伝わっているのでしょうか…?
これからの人生、どうしたらいいのか、どう、生きていったらいいのか…、目の前は、真っ暗、分からないことだらけ、ただ、さまよい続けるだけ…、いつか、こんな状態から、抜け出すときが、訪れるのでしょうか…?今、私の職場では、難しいことは、よく、分からないけれど、経営状態が、あまり、思わしくないらしく、何と、いつ、クビを、切られるかどうか、分からない、危うい状況に、置かれていて、いつも、ビクビクしています。
いつの日か、こころが、解き放されて、のびのびと、自由に、澄みわたる、あおぞらのもと、お日さまの光を、思いっきり、受けて、かわいらしい動物たち、お花、みどり…、大好きなみんなと、手を、つなぎあって、仲良く、とびっきりの笑顔で、生きることができますように…、そう、いつまでも、願わずにはいられません。
Il venticinque luglio venerdi,le sette e tre quarti del mattino,sereno
Buon giorno!
Cari dio e tutti,amo.