沈黙のうちに…

こんばんは。まあなです。窓際から、降ったり、止んだりと、まるで、私のこころのよう…、相変わらず、気まぐれな雨の風景を、眺めながら、ひとりで、うつと、闘っています。ここのところ、どういうわけか…、ひとりのときが、多くなりました。いや、みずから、人々から、遠ざかって、ひとりのときを、好んでいるのかもしれません。うつのせいも、あるのでしょうか…、人と、いるのが、おっくうで、おっくうで、仕方ないのです。人と、いると、四方八方、圧迫されてしまいそうで、息苦しいのです。上手く、話すことができないし、上手く、聞き取ることができないし、それに、上手く、思考することができないから、何を、話したら、いいのか、よく、分からないのです。職場でも、できるだけ、人との距離を、置いて、あいさつとか、必要最低限なことだけ…、だから、無口で、おとなしい子と、通っています。でも、ある意味、そっちのほうが、気が楽なのかもしれません。なぜなら、人付き合いが、苦手な私、できるだけ、良いようにと、思って、あれやこれやと、苦悩しすぎて、疲れきってしまうし…、それに、余計なこと、話してしまって、迷惑かけたり、誰かのこころを、傷付けてしまったりするよりかは、無口のほうが、無難に、生きることができるのではないかと、思うからです。元々、ものごころ、ついたときから、かねふくに、入る前までは、自閉症ということで、自分は、人と、どこか、違和感がある、人からのそんなふうな視線が、恐くて、恐くて、いつの間にか、対人恐怖症になってしまって、無意識のうちに、人々から、遠ざかって、話す機会が、ほとんど、なかったため、無口で、おとなしい子でした。かねふくでは、どういうわけか…、魔法が、かけられたように、そんなこころが、解き放されて、無意識のうちに、今まで、たまりに、たまったものが、口から、飛び出してしまって、話したいことが、次から、次々と…、20数年間分、一気に、話し尽くしてしまったようなのです。神さまのお導きによって、カトリックへ、生きると、決意を、堅めて、最も、充実していたころでした。きっと、ありのままで、生きるように…と、神さまのお恵みだったのでしょうか…?今は、魔法が、消えてしまったかのように、そのころが、うそのように、話すエネルギーを、使い果たしてしまった上に、いろいろと、ありすぎたため、人と、関わって、お話するのが、おっくうで、おっくうで、仕方ないのです。それに、もう、私の居場所は、どんなに、探し求めても、どこにも、ありません。もしかして、この世には、私の居場所なんて、どこにも、ないのかもしれません。親にとっては、できそこない、社会にとっては、無能で、役立たず、私なんて、いても、いなくても、どうでもいい、むしろ、いないほうが、かえって、迷惑かけたり、誰かのこころを、傷付けたりせずにすんで、いいのかもしれません。
キエテナクナリタイ…、
空気のように、風のように、完全に、気配を、なくしてしまいたいです。そう、元々、私なんか、誰も、知らなかったように、元々、私なんか、存在しなかったかのように…、自分というものを、完全に、抹殺してほしいのです。
みんな、こんな私で、ごめんなさい。いっぱい、いっぱい、よくしてもらって、支えてもらっているのに、私は、そんな、みんなのこころに、感謝しなければいけないのに、感謝するどころか、悪い思考しか、抱くことができないのです。もうだめ…、こんな、どうしようもない私は、
ケシテクダサイ…、
神さま…、何だか、疲れてしまいました。