愛から、愛へ…

こんばんは。まあなです。今にも、雨粒たちが、こぼれ落ちそうな風景を、眺めながら、どうしようもないこころと、葛藤しているところです。何だか、涙が、あふれ流れてきました…。こんな私でも、大切に、思ってくれる人が、生まれて、初めて…、身の程知らずの私、そのこころを、受け止めることができませんでした。どうか、どうか、お幸せに…、小さき私、ただ、ただ、そう祈らざるをえないのかもしれません。
ながさきのときから、5日、あの愛しさが、ふたたび、蘇ってきました。カトリックセンターから…、朝のお日さまと、ともに、浦上天主堂のアンジェラスの鐘が、鳴り響く中、さわやかな目覚め、お隣りには、パンダちゃんが…、ほっと一息、前日の愛を、抱えながら、新たな1日へ、出発を、切ることができました。何と、おにぎりと、おみそ汁の朝ごはんの暖かな、おもてなしが…、今日を、健やかに、生きるための糧、感謝しながら、おいしく、いただきました。身仕度と、こころの準備をしてから、ちょっと、落ち着いたあと、いよいよ、教会巡りへ、いざ、出発です。
まずは、電停、松山町から、若葉町へ、降りたあと、目的の西町カトリック教会の十字架が…、まるで、最初から、私の訪れを、予感して、待ち構えていたかのように、そびえ立っていました。私は、嬉しくて、嬉しくて…、一目散に、教会へ…、けれども、進んでも、進んでも、今にも、手が届きそうなのに、なかなか、教会へ、たどり着くことができないのです。教会のおそばへ、着いたと、思いきや、何と、入口が、見当たらない…、ぐるぐる、周りを、まわっているうちに、やっと、入口が…、やったぁ〜!!、ご近所のにゃんこたちが、よく、来たねって、歓迎してくれているよう…、きっと、こうして、迷えるこひつじの私を、神さまは、いつも、正しい道へ、歩ませてくださっているのでしょうね…。まるで、天へと、引き上げられているかのような十字架、神さまの御手いっぱいで、私たちを、抱き締めてくださっているかのように、横に、広がる聖堂内へ…、今年、ペトロ岐部と、187の殉教者が、列福されるに、あたって、彼らのために、そして、彼らの強い信仰のこころへ、続く、人々のために、みんなのこころが、一致して、世界の平和が、もたらされるように…、こころと、手を、合わせて、祈りを、捧げました。
次は、ふたたび、電停ながさきを、通過して、正覚寺下、バスに乗って、愛宕町のバス停の最寄り、愛宕町カトリック教会へ…、たどり着きました。小高い丘に、立つ、こじんまりとした、やわらかい、クリーム色の教会、表には、マリアさまに、優しく、見守らられている、微笑ましいイエスさまが…、そんな御母の御子への愛が、私のこころまで、伝わってきて、疲れが、ふと、とれていくようでした。そんなマリアさまに、ありがとうと、感謝を、捧げてから、やわらかな聖堂の中へ、ここでも、188殉教者のいのちが…、思いが…、生きていて…、そんなこころたちが、長いときを、渡って、たくさんの人へ、私たちへ、大切に、受け継げられて、今も、こうして、生き続けていること…、深い喜びの中、こころと、手を、合わせて、後世へ、受け継ぐことができるように…、私も、こころと、手を、合わせて、祈りを、捧げました。
その次は、電停、正覚寺下から、蛍茶屋の最寄り、本河内カトリック教会へ…、永遠の眠りへ、ついた、たくさんのたましいたちが集う、お墓たちを、前に、またまた、坂の多い、ながさきならではの小高い教会、その堂々とした、たたずまいは、まるで、揺ることのない、永遠の愛、希望のみなもと、神さまへの信仰の、こころを、表しているようでしたね。何と、ここも、お墓の周りを、うろちょろしながら、入口へ、たどり着くまで、相当、時間を、費やしてしまったのです。やっと、たどり着いたとき、神さまは、どんなに、迷っても、必ず、正しい方向へ、導いてくださるという真実を、改めて、思い起こすことができて、何とも、言えない喜びで、満たされました。途中、聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父さまの記念館が…、聖母の騎士信心会の創立者ナチスアウシュビッツで、身代わりの死を、遂げた、愛の殉教者、そのコルベ神父さまのおこころは、計り知れない…、イエスさまが、証した、隣人の愛を、貫き通した、その生、きっと、たくさんのこころに、響いて、愛しく、支えてくれているのでしょうね…。そして、聖堂の中へ…、ふたたび、祈りと、感謝を、捧げて、そこを、あとにしました。
最後は、ふたたび、ながさき駅へ、戻って、バスで、犬継へ…、最寄りの三ツ山カトリック教会へ、たどり着いたところ、ちょっぴり、雨粒たちが…、見渡すかぎりの自然たちを、豊かに、実る、神さまからのお恵みが、降り注いできました。教会の正面には、イエスさまのご像が…、そのお姿は、まるで、私に、ついてきたいものは、十字架を、背負って、私に従いなさいというみことばのよう、私は、ずっと、ずっと、そんなイエスさまのおそばにいたい…、だから、ちゃんと、自分の十字架を、背負って、忠実に、みことばを、守って、生きていきたいと、思いました。そして、最後の聖堂の中へ…、ながさきでの巡礼のお恵みに、感謝しながら、神さまのみこころのままに…、1人でも、たくさんの人が、神さまの愛を、見出して、神さまの愛と、ともに、支え合いながら、生きることができる、平安な世の中になりますように…、小さき祈りを、捧げました。
これで、ながさきでのときは、終わり…、あふれるばかりの愛のお土産を、抱えながら、帰途に、着きました。
今夜も、ながさきでの愛の思い出を、たどりながら、デオ・グラツアスと、ともに…。

ペトロ岐部と、187の殉教者の信仰を求める祈り

いつくしみ深い神よ
ひとり子イエスは、十字架の死によって、
すべての人の救い主となり、神への道を、示してくださいました。
主の招きに従い、神と隣人のために、ささげられた、尊いいのちを省みてください。
188名の列福を願う、日本の教会の祈りを聞き入れ、殉教によって、蒔かれた信仰の種に、豊かな実りを、結ばせてください。
殉教者の証しが、旅する教会の励まし、道しるべとなりますように。
恵みによって、かれらの人生を、福音のしるしに、変えてくださったように、わたしたちの日々の暮らしも、神のいつくしみを、現すものとしてください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。
アーメン

標語
ときを超え 今ひびく 福者の祈り

命をかけて 「いのち」を生きる

証 ―188―

Il ventidue giugno domenica,le otto e mezz'ora del pomeriggio,pioggia qualche volta nuvoloso
Buona sera!
Communico amore di dio per cuore vario.