苦しい恋

おはようございます。まあなです。昨日は、神さまの日、日曜日、まるで、神さまと、ともに、この日を、祝福するような、素晴らしいお天気でしたね。久しぶりのお日さまとのご挨拶、たくさんのみずみずしい自然たちの息吹を、思いっきり、吸って、思いっきり、深呼吸して、思わず、とびっきりの笑顔で、「お日さま、元気を、ありがとう!!」って、心と、身体いっぱいから、伝えたくなったぐらいです。
あなたのほうは、いかが、お過ごしだったでしょうか…?
今週も、ともに、無事、生き抜くことが出来るように、見守ってくださって、ありがとうございます、そして、来週も、ともに、よろしくお願いしますって、しっかり、神さまと、向き合って、自分の心を、見つめ直したりと、自分なりに、意味のある休日を、過ごすことが出来たことに、感謝します。
昨日は、昨年より、15日、早め、四旬節第1主日、洗礼志願式も、かねてのミサが、執り行われました。今年の復活徹夜祭、受洗予定者、2人のため、神父さまの説教後、洗礼志願式が、行われました。40代ぐらいの主婦と、思われる、Iさん、私より、3つ、お姉さん、新婚ほやほや、ご主人さんや、お姑さんに、従ってのSさん、緊張した、面もちで、祭壇の前で、新たに、紹介され、そして、私も、1年前、喜びを、持って、自分の名前を、記帳した、あの洗礼台帳に、同じように、私の最も、大好きな聖歌、
「キリストのように」

キリストのように、かんがえ、
キリストのように、はなし、
キリストのように、おこない、
キリストのように、あいそう、
もはや、この身に、生きることなく、キリストによって、生きるために、

キリストのように、かんがえ、
キリストのように、はなし、
キリストのように、おこない、
キリストのように、あいそう、
キリストの死を、その身に受け、新たないのちに、召されたなら、

キリストのように、かんがえ、
キリストのように、はなし、
キリストのように、おこない、
キリストのように、あいそう、
ちからのかぎり

と、みんなが、一つになって、美しく、響き渡る中、2人も、それぞれ、ご自分の名前を、記帳されていました。この日を、もって、求道者から、洗礼志願者となり、四旬節の間、受洗へ、向けての最終段階として、祈りと、感謝のうちに、神さまのお導きに、よって、信仰を、深めていき、より、受洗への気持ちを、堅めていくということです。1年前、2007年2月25日、自分の洗礼志願式を、思い出しますね。神さま、大好きで、大好きで、たまらない気持ちが、抑えきれなくて、暇さえあれば、いろんな教会へ、巡礼したり、聖書の神さまのみことばに、釘付けになったりと、時が、過ぎるのを、忘れるぐらい、神さまのために、生きていた、あのときの、まるで、可愛らしい天使さんたちが、ふわり、ふんわりと、舞い降りてくるかのような中、初々しい、新鮮な気持ちが、懐かしくて、思わず、あのときの私に、良かったねって、握手したくなってしまうかのように、微笑んでしまいました。帰り、「つなぐ」という、四旬節を、よりよく、過ごすためのカトリック教会の出版社の小冊子を、いただき、明日の、少女ベルナデッタの前に、ご出現された、ルルドのマリアさまの150周年記念を、思いながら、あの大好きな、ルルドのマリアさまの歌、「あめのきさき」を、口ずさみながら、晴れわたる、あおぞらの中、久しぶりに、るんるん気分で、自転車を、こいでいきました。
夜になると、やっぱり、あの苦しくて、苦しくて、たまらない出来事が、蘇ってきて、またまた、つらさが、襲ってきますね。私、まあなは、ちょうど、1ヶ月前、生まれて、初めて、失恋を、経験しました。って、言っても、悲しきかな、恋愛経験自体、3度しかないのだけれど…。ここでは、詳しい事情は、お話出来ないけれど、私の人生において、大変な苦しみが、伴いながらも、最も、大切な出来事になりました。約1年間、メールで、神さまのこと、人生のこと、愛のこととか、いろいろと、心のままに、楽しく、お手紙のやりとりを、しているうちに、自然に、惹かれていったということでしょうか…。実は、何と、失恋(この時点では、まだ、失恋とは、気付かなかった。)してから、初めて、恋愛達人のお姉さま?たちに、相談に、のってもらっているうちに、失恋自体、苦しいという、愛するゆえの気持ちに、気が付いたのです。つまり、気付かないうちに、3度目の恋愛を、経験していたということです。いかにも、まぬけな、まなちゃんらしいですね。どうして、こんなに、苦しくて、苦しくて、たまらないのだろう…、この苦しみが、心と、身体に、大きな影響を、与えたようで、不眠症パニック発作、そして、あの離人症と、言われる、症状が、悪化していく中で、転職、ただ、ただ、つらくて、つらくて、もうだめって、生きることを、投げ出したくなるぐらいでした。1ヶ月、経った、今も、引きずっています。きっと、私の性格上、何年も、引きずることになるでしょう。でも、それは、それで、いいのかもしれません。人の気持ちを、分かってあげられなくて、自分のことばっかりの、自己中心的で、罪深い私、苦しみを、味わうことで、少しでも、こんな私を、許してくださるのなら、私は、喜んで、苦しみを、受け止めたいと、思います。そう、自分のこと、ばっかりで、あの人の気持ち、分かってあげられなかったという罪の償いともして…。そんなことで、全く、償うことが出来ないと、思うけれど、未熟な私なりに、償うためなら、何でも、させていただきたいような気持ちです。私なんかが、あの人の前に、現れて、あの人と、あの人にとって、愛しい人との間に、立ち入ってしまったこと、どうか、お許しください。自分が、いかに、邪魔もので、あったか…、考えれば、考えるほど、思えば、思うほど、息苦しいです。
今日、気が付けば、ルルドのマリアさま、150周年記念ですね。世界中のたくさん、病や、貧困、何らかの思い煩いなどで、苦しみに、打ちひしがれている人が、ルルドのマリアさまの愛や、希望に、満ち溢れた、奇跡を、授かることで、1人でも、たくさんの人が、苦しみから、癒され、真実の平和へと、つながっていくことが出来ますように…。
身体は、離れていても、心は、ともに、祈りと、感謝のうちに、喜びを、持って、ルルドのマリアさまを、祝福出来ることに、感謝します。どうか、これからも、いつも、苦しみの中、迷える子羊のような私たちを、1つにして、ともに、いてくださって、よりよい方向へ、導いてくださいますように…。
フランス、ルルドでは、ちょうど、この喜ばしい日を、迎えたところでしょうか…?改めて、150周年、おめでとうございます。

Il undici febbraio lunedi,le otto del mattino,bel tempo qualche volta nuvoloso

Lourdes Maria,Tanti auguri!!
Benedo oggi
Ringrazio Maria!

Prego felicita di Tutti!