per eterno vita

こんばんは(Buona sera)。まあなです(Sono maana)。待降節、真っ只中、共に、私を、取り巻く、全ての人と、心を、一つにして、喜びと、希望を、持って、イエスさまのご降誕を、そして、イエスさまのご再臨を、待ち望み、迎える準備をしていくことが出来ることに、感謝します。
今夜は、素晴らしいクリスマスへ、向けて、私のありのままの心を、綴りたいと、思います。
待降節、クリスマスまでの約3週間(今年は、12月3日からですね。)カトリックでは、そう、言われているけれど、フルリーナさんが、所属されている、カトリックと、最も、親しい間柄、聖公会では、アドヴェントって、言われているようですね。先日、フルリーナさんから、アドヴェントを、よりよく、生きるために、模索させられるような、フルリーナさんの愛しさいっぱいのメッセージを、贈っていただきました。私の今の心に、強く、響き、感動のあまり、心がいっぱいになったと、同時に、目に、涙が、いっぱいになって、ぽろぽろ、溢れ流れてきました。まるで、そんなフルリーナさんは、神様から、遣わされた、天使のようですね。きっと、私が、よりよく、あるために、神様が、フルリーナさんとの繋がりを、与えてくださったのでしょうね。フルリーナさん、どうか、これからも、いつも、いつまでも、姉妹として、心を、一つにして、神様への思いを、分かち合い、お互いの生を、支えていくことが出来るように…、どうぞ、こんな、落ちこぼれのクリスチャンだけれど、フルリーナさんや、いろんな繋がりを、通して、自分なりに、一歩ずつ、成長していくことが出来たらと、思うので、よろしくお願いします。
今の私、身体の状態は、やや良好ってことでしょうか…?心のほうは、相変わらず、良くなったり、悪くなったりの繰り返しで、波が、激しいです。
でも、その中で、神様の愛を、見出し、自分なりに、よりよく、生きる方法を、模索していくことが出来ることに、大きな喜びを、感じています。
心を、落ち着かせて、目を、つぶって、今までの人生を、振り返ってみれば、走馬灯のように、いろんな出来事、いろんな思いが、頭の中で、ぐるぐる、駆け巡ります。
何度も、耳が、痛くなるぐらい、言うようだけれど、本当に、生きることって、大変ですね。どうして、こんなにも、こんなにもって、思うだけで、もう、嫌!って、人生を、投げ出したくなるぐらいです。
人生、大きな波に、さらわれたり、高い壁に、立ちはだかったりと、いろんな苦悩が、ひっきりなしで、耐えません。その度に、人って、弱いものだから、ついつい、理性を、失って、平気で、良からぬ思いを、抱いたり、または、それが、態度や、行動に、出たりするなど、過ちを、犯すことで、誰かを、傷つけてしまったりすることで、罪悪感に、さいなまれ、そんな自分は、ダメだと、そんな自分に、生きる価値がないんだと、自責の念に、駆られ、時には、死への願望へ、陥るなど、悪い方向へ、向かってしまうこともあります。
でも、気付いてください。
そんな私たちのことを、そのまま、愛してくださる、神様が、いらっしゃるのです。
そう、神様は、最初から、私たちの、良いところも、悪いところも、何もかも、ご存知の上で、私たちを、必要とされ、愛するあまり、神様の栄光ある、御姿に、似つかわしく、造られて、愛の息吹きで、命を、吹きかけられ、かけがえのない生を、お与えになったのです。
つまり、私たちは、愛され、生かされているのです。
だから、どんなに、罪や、悪に、まみれて、汚れているように、思えても、神様は、私たちのことを、愛するあまり、許してくださるのです。
許し…、これが、イエスさまを、通して、私たちに、証してくださった、最も、大きな愛なのです。
2000数年前、神様は、この世に、神様の御子、イエスさまを、遣わされました。
それは、罪や、悪に、まみれ、暗闇の中、もがき、苦しんでいた、人たちを、救い、希望を、持って、生きることが出来るように、導くためでした。イエスさまは、神様の御子であったにも、関わらず、神様に、等しい地位に、固執せず、ご自分を、へりくだって、低くして、最も、人々から、蔑まされた、貧しい人たちと、同じような境遇の中で、共に、生き、神様の愛を、証されながら、30数年のご生涯を、送られました。
お互いに、愛し合うこと、神様から、課せられた、何よりも、大切な掟、イエスさまは、ご自分のお身体と、お心、全てをかけて、それを、示してくださいました。神様が、私たちを、いかに、愛してくださっているかを、説かれ、そして、神様が、私たちを、愛してくださるように、私たちも、神様を愛し、1人ひとりを、愛するようにと、そして、共に、一つになり、愛し合いながら、支え合って、希望を、持って、生きることが出来るようにと、導いてくださいました。
最期、そんなイエスさまは、全人類を、罪や、悪から、救い、それを、贖うために、自ら、全ての罪や、悪を、背負って、十字架に、かけられ、死に、至りました。でも、神様は、イエスさまを、死から、再び、命へと、結び付けるようにしてくださいました。そうすることで、私たちは、全ての罪や、悪から、救われ、許されたのです。
だから、どんなに、罪を、犯しても、イエスさまを通して、神様に、許しを、求め、祈れば、神様の愛の息吹きで、必ず、許され、清め、新たにされ、自信を持って、生きることが出来ます。
私たちは、そのままで、いいのです。不完全で、いいのです。いや、もともと、神様が、望んで、私たちを、不完全に、造られ、不完全だからこそ、自分が、いかに、罪深くて、どうしようもない、弱い存在であるかを、気付き、そして、そんな自分を、どうにかしてって、神様を、願い求める気持ちになるのです。それから、神様と、お近くになり、神様との交流が、ますます、深くなるのです。
それが、神様のみ心です。
もう一度、同じことを言うようだけれど、たとえ、どんなに、罪や、悪に、まみれて、汚れているように、思えても、目には、見えないかもしれないけれど、1人ひとりに、神様の働きのために、それぞれに、能力が、備われ、そんな1人ひとりが、神様の愛であり、かけがえのない存在なのです。
だから、お互い、神様に、とって、愛しい、そして、不完全なもの同士、相手のどんなところも、受け入れて、愛し、良いところを、延ばし、悪いところを、補い合い、支え合って、生きていかなければいけません。
その真実が、周りへ、世界へと、広まり、みんなで、手を、取り合って、一つの大きな輪になり、そして、平和へ、繋がり、1人でも、多くの人が、幸せな笑顔で、生きていくことが出来るように、祈らずには、いられません。
これからの人生、きっと、いろんな苦悩が、待ち受けていることでしょう。その度に、絶望して、どうしようもないと、思うような状態に、陥ってしまうかもしれません。でも、それらの苦悩は、神様から、与えられた、その人にとって、神様のみ心に、必要な試練であり、やがて、それは、糧になって、身となり、その人が、その人らしく、光り輝いて、生きることが出来るようになります。
神様は、どんな苦悩の中でも、いつ、どんな時でも、いつまでも、共に、いて、見守ってくださいます。
だから、神様を、信じて、神様が、愛してくださる自分を、信じて、共に、前向きに、生きていきましょうね。
神様、どうか、どうか、「デオ・グラツィアス」と、私が、私にとって、私らしく、よりよい方向へ、歩み、いつの日か、神様のみもとへ、帰り、永遠の命へと、繋がることが出来ますように…。